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人に人としての尊厳があるように、川にも川としての尊厳がある。人と川がお互いを尊重する関係とは?を考えています。
中津川水力人脈
2008-01-28 Mon 23:27
新潟日報の原発の連載は秀作で、改めて読み直すと、東電にとって新潟の資源の意味が見えてくる。

第1回 東電の悲願 (2007年12月11日掲載)

高度成長で需要急増   水力人脈に活路


関東地方に電力を送る東京電力中津川第一発電所。水力発電をめぐって培われた東電と本県とのパイプは、柏崎刈羽原発建設にも生かされた=11月28日、津南町

 東京電力がなぜ、三国山脈に隔てられた日本海に目を向けたのか。実は本県は既に、水力発電によって東電とのつながりがあった。関東への送電実績は古く、大正時代にさかのぼる。原発誘致の動きには、この水力人脈が連なる。

 「東電がお前に会いたがっている」。柏崎刈羽原発の建設計画が発表された前年の1968年12月。刈羽村長から県議になったばかりの木村博保(79)は突然、先輩県議に声を掛けられた。東電中津川第一、第二発電所の地元、中魚沼郡選出の祢津(ねつ)文雄(故人)だった。

<社長室も顔パス>

 津南町名誉町民として役場に写真が飾られる祢津。昭和時代まで続いた東電の水力発電所建設に伴い、地元の水利権保護に尽力した。祢津を知る同町副町長、滝沢秀雄(67)は「東電の社長室にもフリーパスで入れた人」と話す。

 69年1月、木村は祢津と2人で東電本店に出向く。待っていたのは当時の筆頭常務、小松甚太郎(故人)。水利権交渉で祢津の交渉相手だった人物だ。

 「水力ではもう間に合わない。電力が緊急に要る。原発がないと日本経済がもたない」と小松は理解と協力を求めたという。

 木村は元首相・田中角栄のおひざ元で刈羽郡越山会長も務めた。郵政、大蔵大臣を歴任した田中は69年当時、自民党幹事長を務め、抜群の政治力を誇っていた。木村は「東電は私のバックに角栄さんがいる事情を承知の上で私を使ったのだ」と推し量る。

 東電には、原発建設を急ぐ理由があった。

 56年に始まった神武景気に端を発した高度経済成長期は、首都圏への爆発的な人口流入をもたらす。

 東電の販売電力量は60年が222億キロワット時だったが、70年には約3倍の700億キロワット時を超えている。予想される電力需要の急激な伸びに対応するため、新たな電源の確保は至上命令だった。

 「のどから手が出るほど西側に電源が欲しかった」。建設計画公表の2年前の67年、東電本店企画部で電源立地計画策定に携わった宅間正夫(70)は、当時の社内に充満していた空気をこう代弁した。

 東電の電力供給エリアは東端が茨城、千葉両県、西端は静岡県を流れる富士川の東側に当たる。宅間が言う西側とは、神奈川県や伊豆半島の西を意味する。柏崎刈羽に先立つ60年、福島県が太平洋沿岸に原発の誘致計画を発表。東京以東の電源確保と送電系統整備のめどはついていた。人口が膨らみ続ける東京以西の電源確保が東電にとって悲願だった。・・・略



河川史を切り口に、2年前に地元紙で連載を書かせてもらったけど、水力人脈についてはノータッチだったなぁ・・・祢津元県議の話は中里でもよく聞いた。

水力発電の交付金で成り立っている津南町だから当たり前だけど、中津川を歩くと水の使い方のスゴさに驚く。野反湖から始まる中津川は水量豊かな川だけど、上流からほとんどの水は発電所の導水管を通り、川には水がない。
大正時代~昭和30年代は水力開発のラッシュで、当時の考え方は、郷土のため=開発 だった。50年以上過ぎた今、水利権・環境・地域を考え直す時期にあると思う。

秋山紀行にある中津川は秘境の人々の暮らしの中にあり、独自の文化を育んでいた。今、中津川の風景はどこを切り取っても痛々しい。
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